饅頭ヒューリスティック【前編】

餅のような猫。


以前、職場の偉い人に「最中(もなか)」をいただいた際、私はお礼のメールに堂々と

「おまんじゅう、ありがとうございました!」

と書きました。

後になって、「違うわ、あれは最中だわ。」と気づきましたが、時すでに遅し。最中をくれた優しい方は、「おまんじゅうで疲れを癒してね。」とご返信くださっていたのです。訂正のタイミングを盛大に逃しました。


また、先日、日光に行ったときのツイートでも、私は大福の写真に堂々と「饅頭」と書いておりました。


どうやら私は、丸くてあんこが入っているものであれば、すべてを「饅頭」に集約してしまうらしいのです。一体なんなんですか、この適当すぎる認知のパターンは。


普段の私の脳みその動作仕様は、

「独裁者=ゴミクソ野郎といえば楽だろうし、行動に対するその評価に異論はない。しかしその人格形成に至った背景には、愛着の問題があるのではないだろうか」

「マウンティング行為=本人の意地の悪さと断じてしまえば楽だろう。だが個々の性格にだけ原因を求めてしまえば本質を見失う。背景にはアイデンティティの揺らぎがあるのではないか」

……と、大体がこんな具合で、単純化された結論を出すことに疑問を持ち、細かく分析しながら常時動作してるわけなんですが、なぜか「丸くてあんこの入った和菓子」の認知においては、各々の境界が容易に消失させられ、すべてが「饅頭」に飲み込まれてしまいます。同様に、「練り切り」や「上生菓子」であれば、間違いなく「和菓子」もしくは「茶菓子」としか認識されません。


日光の旅の話でも、「食べ物もチェックしないで行っちゃう」と書きましたが、私は食事にあんまり興味がない……というわけではないものの、あまり脳のリソースを割かないようです。もちろん、美味しいものを食べるのは人並みに好きなはずなのですが。

ただ、人生における最大の関心の対象はどうやら「人間の心理構造」らしく、「独裁者=クソ野郎」「マウンティング=意地悪」という処理で終えることを拒む一方で、食べ物においては、最中も大福も、饅頭にサードインパクトするように、「似たようなカロリー摂取媒体」として概略処理してしまうようです。

おそらくですが、これは脳みそが心理構造分析モードでいつもフル稼働しているため、それ以外の面において、省エネをする必要があるのではないかと推察します。
よってここに、「饅頭補完計画の正体は、ヒューリスティック処理である」という仮説が成り立ちました。

続きます。たぶん。

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